防衛戦
手の甲に垂れる己が影の深さに気付いて、天を仰ぐ。
冬の空は、低い。
東は湖底のような濃い青に覆われ、西には炎のような赤さが伸びている。そのため、まるで自身の頭上を境目に世界は夜と昼に別たれているようであった。天はなんと罪深いのだろう――こうしていると、あたかも自分がこの世の中心であるかのような錯覚を覚える。自分のような矮小なものですらそう思ってしまうのだから、古の英雄たちがこの天を掌中に収めんとしたのも、致し方のないことなのかもしれぬ。
「どうした」
落陽に見惚れ、手綱の力が緩んだ。そのせいで歩を止めた馬の気配に気付いたのだろう、先行していた上官が横顔を見せる。それほどあからさまだったわけではないというのに――毎度のことながら彼の注意深さには舌を巻く。特徴的な切れ長の目に夕陽が照って、炎のように揺らめいていた。
「いえ、あの」
口ごもる。
よもや事実を言うこともできず――くだらぬ、と一言の下に切り捨てられることは明白である――だからといって「なんでもない」と誤魔化すことを許してくれる相手でもない。逡巡すれば、彼の眦にいよいよ怪訝そうな色が帯びた。こうなれば納得するまで彼は言及を止めぬだろう。神算鬼謀と讃えられる曹魏が誇る智将司馬懿とは、そういう男だ。ときに粘着質と揶揄されるほどの慎重さと神経質さを持ち合わせている。
「日が暮れる、と思いまして」
観念して、
は応えた。嘘ではない。
の言葉にやや考える素振りを見せ、やがて司馬懿は手にしていた黒羽扇を高く振り上げる。
「進軍止め!」
決して大きすぎるというわけではないが、その声は夕暮れの中でよく徹った。少しのずれもなく、全ての兵士たちが途端に足を止める。思わぬ司馬懿の行動に
が驚くも、ちらりと一瞥が向けられただけで無視された。司馬懿は突然の号令に戸惑う兵士たちを馬上から睥睨し、やがて口の端を歪める。
「今日はこの辺で野営とする。各自、準備を始めよ!」
言い終わると同時に馬上のものは馬を下り、徒歩のものたちは幕を張る場所を探し林の中へと入ってく。行軍中の張り詰めていた空気は溶けて消え、準備に勤しむ兵士たちの表情にどこか晴れ晴れしたものが混じる。それを微笑ましく思いながら、
も馬を下りた。
「よろしいのですか?」
同じく馬から下りた司馬懿に近付いて声を潜める。出立したときに聞かされていた本来の野営の予定地点は、未だ少し先だ。頃合を見て寄って来た係のものに手綱を預け、司馬懿が歩き出す。何も言わぬのはついて来い、という意味だ。答えを急かすような愚行は犯さぬまま、
は黙ってその背に従う。
「行きは急いて無理をさせた。が、おかげで反逆者を無事討ち取ることができた。帰路ぐらい、甘やかしてやるのも悪くはなかろう」
言うなり兵を呼びつけ、外した甲冑と兜を預からせる。
司馬懿は将軍職にありながら、戦場に於いては軍師として主に後方にて軍を指揮することが多い。ゆえに戦闘に参加することは稀であった。しかし、頭部を兜で覆い、顔と指先以外は肌が見えぬよう丹念に戦袍にて包んだうえ、さらに甲冑を身につけるという出で立ちは、前線で戦う将らよりも仰々しい。彼が臆病者という不本意な陰口を叩かれる要因の一つでもあった。
「師団長はいかがされますか?」
兵が気を遣って
にも声を掛ける。つられるように自分自身を見下ろすものの、渡すべきものが見つからなかったので首を振った。持久力が男性よりも劣るということを自覚しているため、常より戦には軽装で臨むようにしている。甲冑を身につけぬことも多々あり、今も丈夫に織られた戦袍だけを身に纏うのみ。腰に刀を帯びていなければ、とても行軍中には見えないだろう。
「しばし休む――ついて参れ」
言うが早いか、返事も待たずに男は歩き出した。
時は太和元年、冬のこと。
上庸にて新城太守の職にあった孟達が、蜀の諸葛亮と内通していたことが発覚し、司馬懿は裏切り者の断罪を命じられた。もとより蜀を裏切った功績で魏に投降した男である。再び魏を裏切って蜀に戻ろうとする厚顔さは、もはや許しがたい――曹丕の怒りは実であり、それは彼の腹心であり、曹魏一の戦上手に討伐軍を委ねたところからも窺い知ることはできよう。
司馬懿が赴任している宛から、上庸まで通常ならば一月は掛かる。孟達は一見揺るぎないと思われるその自明ゆえに危機感を鈍らせ、三国に名を轟かす智将を侮った。司馬懿はその安心感を逆手に取り、討伐を命じられるや否や数千頭の替え馬を用意し、また昼夜兼行の進軍を強行することで、たったの八日で上庸へと到着してみせたのである。無論、あまりの素早さに腰を抜かした孟達軍など、司馬懿率いる魏軍の敵になり得るはずもない。
――保身に走った哀れな反逆者など、我が手のひらで踊る道化に過ぎん。
総大将である司馬懿の言葉通り、開戦後間もなく孟達は捕えられ総大将たる司馬懿の手によって処刑された。扇動した将が屈したとなれば、兵士たちは戦う理由を失くす。続々と孟達に従っていた兵士たちは投降し、呆気なく裏切りは鎮圧される。この鮮やかな勝利は曹魏の中では二心を抱くものたちへの牽制となり、他国には今一度優れた軍師の名を知らしめる絶好の機会となった。
*
ただ前を進む上官の背中と一定の距離を保ちつつ、
はまろびそうになる足取りで必死に追った。ここ数日起きている間は常に馬上にあったため、うまく足に力が入らぬ。同じ条件であるはずなのに全く以ってそれを感じさせぬ司馬懿に、内心で感嘆した――これが歴戦の将の風格だろうか。
「どうであった、此度の戦は」
不意に立ち止まった司馬懿が振り返る。
も足を止めれば、いつの間にかあたりに林はなく、自身らが見晴らしのよい丘に立っていることに気付く。遮るもののない風は、夜の冷気も含んで痛いほどであった。寒さを凌ぐために羽織っていた外套の前を、素早く片手で合わせる。
「まさに神速と呼ぶに相応しい速攻でございました。さすがは司馬懿さまの采配でございます」
素直な
の言葉に、司馬懿が唇を引き結んで顔を背けた。
「凡愚なりに、わが知略の素晴らしさ、分かってきたではないか」
照れているのだと気付いたのは、この一拍後のこと。
すでに賞賛ならば孟達を討ち取った時点で多くの部下から捧げられているだろうし、そもそも平生より有能なる能吏たる彼にとって賛辞など聞き飽きているものだとばかり思っていた。思わぬ反応に驚いていれば「間抜けな顔をするな、馬鹿めが!」と怒鳴られる。
「だが」
まるで、気持ちを切り替えるように小さく咳払いをした。
「これで諸葛亮もこの司馬仲達と対するためには全力を尽くさねばならぬことを痛感したであろう……以後はさらなる苛烈な戦が待ち受けていると心得よ」
一つ戦が終わったばかりであるのに、すでに司馬懿は遠くを見ている。彼の眼差しが向けられた西の端にともに目を遣りながら、
はどこか覚えのある心細さを感じた。
鄙の平民の娘として生を授かり、貧困に耐えかねて都に働き口を求めてやってきたのが数年前。思うように職を得られぬ焦りから、罪を働こうとしたそのときに出会ったのが司馬懿であった。貧しさから逃れたいのならば己の才を示せ、そう言い捨てた彼の背を追って曹操に仕官した。以後、ただ彼の傍に在りたいという気持ちだけで刃を振るい、生き延びてきた。一途さが実って、今は一師団を預かるまでとなる。親の決めた見知らぬ男の許に嫁ぎ、子を成すが幸せと教えられてきた身の上では、信じられぬほどの出世であろう。
けれど、時おり考えることがある。
(この戦いはいつ終わるのだろうか)
次第に山に呑まれていく陽の眩さに、思わず目を細めた。
落陽に安堵し夜の安寧に身を寄せるも再び夜明けが訪れるが如く、一つの戦が終われば再び新たな戦が起きる。曹魏の名軍師たちは次々とこの世を去り、今や曹丕の片腕として不動の地位を得た司馬懿が戦の中核を為す。司馬懿を力づくで出仕させたという曹操は、すでに病にて他界していた。けれど未だに司馬懿が戦の舞台から降りることは許されぬ。
「……戦の先には、なにがあるのでしょう」
ふと、問う。
司馬懿がゆっくりと振り返り、逆光の中で
を見た。
「戦の後にも先にも存在するものは何もない。ただ国があり、民があり、時が流れる」
三つに分かたれた天下すら茶番に過ぎぬ――そう、彼の声は物語る。
「天は分かつことなどできぬ。天は掴むことなどできぬ。天が欲しければ指差して宣言すればよかろう、誰もそれを咎めぬ」
手にしていた扇の先を、すでに藍色の闇に染まった空に向けて男はいう。驚いたのは、先刻の
の考えたことに酷似していたため。司馬懿の言葉はまるでこの乱世を嘲笑うかのようなものでありながら、不思議と穏やかに響く。せめてどのような顔をしているのか知りたいと願うも、陽の放つ最後の強烈な一条の光が、彼の表情を消していた。
「なぜ、司馬懿さまは戦うのですか」
問いを変えれば、司馬懿が笑う声。
「孟達の最期の言葉を教えてやろうか」
唐突に出たこの戦の敵総大将であった男の名に、
は眉根を寄せる。捕えた裏切り者を誅したのは、誰であろう司馬懿自身であった。
「偽りの忠義で動く貴様が何をいうか――そういって朽ちおったわ」
偽り、という言葉に
は眉根を寄せる。今や軍権を掌握しているといっても過言ではない彼と結び付けるには、あまりに不穏な響きを帯びていた。
「そのような顔をするな。処刑はわたし一人で行った」
たとえ愚者の苦し紛れの戯言であろうと、要らぬ話を都に持ち帰れば騒動の火種になりかねぬ。杞憂を目敏く察した司馬懿が、安堵させるように笑う。
「司馬懿さまは……曹魏を裏切ったりはしませんよ……ね?」
問いが掠れた。
考えなかったことがない、といえば嘘になる。強きものの許に下るのは乱世の習い、ましてや司馬懿は慧眼を持つ。曹魏に未来なしと判断すれば、あっさりと全てを捨て新たな君主のものに行くだろう。
――そうしたとき、わたしはどうするのだろう。
何度悩んでも、答えが出たことはない。
は曹魏に忠誠を誓っている。
卑しき出自であり、また女でありながらも一廉の軍人としてこうして在るのは、曹操の大胆な政策のお陰であり、返せぬほどの恩義を感じている。彼が亡くなった今も、その遺志を継がんとする曹丕に懸命に尽くすことで受けた恩を返して行きたいと考えていた。だが、同じぐらいの忠誠を、司馬懿にも誓っている。彼は尊敬に値する人物であり、また今日の
があるのは司馬懿に依るところも大きい――そもそも仕官のきっかけは司馬懿の言葉なのだから。
曹魏と司馬懿、今はその二つが重なり合っているために葛藤することはない。けれど少しでもずれたとき、自分の忠誠はどこへ向けられるのだろうか。
(わたしは、ずるい)
必要なのは、自分がどうしたいか、ということだ。けれど答えを出せぬ弱さゆえ、司馬懿に甘える。
は自身の不甲斐なさに唇を噛む。
「わたしは主君を違えるために謀反など起こさん」
司馬懿の応えは明快であった。
「だが、忠義で動いておらぬのは確かではある」
再び
は眉宇を顰める。
曹魏を裏切るつもりもないが、忠義があるわけではない。
真意が分からず、ただ
は困惑した。
では、なにが彼を突き動かすのか。
「……割拠する英雄らの志に比べれば矮小な願いよ。取るに足りぬ」
曹操は覇道を達するために。
劉備は仁を貫くために。
孫権は信に応えるために。
各々の君主らが掲げた天下を欲する理由を詠うように囁きながら、司馬懿はくつくつと喉を鳴らす。愉快げなそれは、自嘲のようでもあった。
「我が父、司馬防には八人の男子がいた。わたしはその次子である」
「存じて……おります」
躊躇うように頷いたのは、彼の意図が読めぬため。
代々高官を輩出した名門司馬家の名を知らぬものは都には居らぬ。そして、当代の司馬家が誇る「司馬八達」は宮中でも有名であった。
「今でこそ兄弟の中で最も地位ある立場に就いているが、幼少のころは兄はおろか弟たちにも遅れをとる不出来な子であった」
驚いたのは、これほど優秀な彼にも不出来な時代があったことと、矜持の高い彼の口からそれを聞いたことの二つに由来する。相槌すらうまく打てずにいる
を気にする様子もなく、司馬懿は続けた。
優れた兄弟は名を覚えられる。けれど劣ったものは名すら呼ばれぬ。ただ、司馬家の子としてだけ認識され、個として存在することを忘れられていく。
「凡庸であれば埋没する。わたしはそれが怖い」
だから、知を磨いた――誰にも負けぬように。
陽はもはや完全に落ち、辺りにはぼんやりとした朱色の余韻だけが残されていた。それもやがては夜の闇に呑まれるだろう。司馬懿の姿をかき消していた逆光はもはやないが、代わりに彼は黒羽扇で口許を覆っていた。表情は未だに読み取れぬ。黄昏が見せる幻か、不意に
は眼前に佇む男が誰なのか分からなくなった。少なくとも、常の司馬懿ではないような気がする。
彼を、傲岸不遜の不埒者と苦々しく思う者は少なくない。
豊かな知と才を鼻にかけている、と。けれど今、
が対峙しているのは決して自信に満ち溢れた男などではなかった。それはまるで、己の才を疑い、少年のように自信を失くしては途方に暮れているようにも見える。
「わたしは、誰かと己を比べることでしか自己を確認できぬ愚かな人間よ。ゆえに負けられぬ、勝ち続けなければならぬ」
才子であることが彼の誇り、否、他者と自分とを分けるもの。だからこそ、弛まぬ努力で己を磨き、心根が折れぬよう強くあろうと人一倍貪欲に欲す。
「わたしの望みはただ一つ、我が才を示す――ただ、それだけだ」
なんとも小さく愚かで本位な望みであろう、と吐き捨てるように続ける。
不意に
は、初めて出会ったときの彼の言葉を思い出した。すなわち、曹操が優れた才を己が許に惹き寄せるために発したという「唯だ才のみ是を挙げよ」という命である。乱世の姦雄に相応しき清々しい言葉は、けれど一方で人々を蝕む。才さえあれば何にでもなれるという可能性は、同時に人々の安寧をも覆す。
もそうだ。
百姓の息子は百姓にしかなれぬし、商家の娘は商家の妻になる。けれど自分は、百姓の家の娘に過ぎぬはずだったにも関わらず、いつの間にか一師団を率いる軍人となっていた。蜀の前王である劉備は元は草鞋売りであったという――それがいつの間にやら、大宦官の孫と将軍の息子と共に天下を分けるまでに至る。これが、乱世といううねりなのだ。名士の子であるという価値はすでに姦雄によって剥ぎとられた。自身が何者であるのかを示すのは、もはや自身しかおらぬ。激しい乱世のうねりに飲み込まれぬよう、司馬懿は必死に戦っている。そう、
の目に映った。
「戦うことで、わたしはわたしを守っているに過ぎぬ」
その果てにはいずれ、天にも手が届くやも知れぬな。
ひっそりと紡がれた言葉を、
は聞こえないふりをした。代わりに、すでに夜の闇に閉ざされた中で手を伸ばして彼の裾を掴む。力を入れれば嘘のように彼の身体は
の許に引き寄せられ、望みは口にする前に与えられた。落とされた口付けに必死で応えながらも、
は縋るように彼の背に腕をまわす。
(わたしでは、なれぬのですか)
これほど彼の存在を必要としている自分がいる。他の誰が彼を認めずとも、
が全てを懸けてでも彼を認めてみせる。それでもう十分ではないか――それは、独占したいという欲から出た願いではない。ただ、戦い続けることを己に課した彼を憐れむがゆえ。
言葉にならぬ想いを伝えるが如く、強く抱きしめる。
(それでも、伝わらない)
司馬懿は何も言わぬ。まるで彼女の心の裡を全て見透かしているようだった。そのうえで、自分に言えることなど何もないのだとでもいうように、けれどそのことに引け目を感じているかのように優しく抱き返される。
「……ん……っ」
深まる口付けに酔いながらも、ぼんやりと心細さの正体を知った。
彼が戦う理由と
が戦う理由は、昼の明さと夜の青さが異なるように違う。ゆえに、どれだけ傍にいても、言葉を尽くしても、そして肌を重ねても、最後の最後には互いに同じものではないのだという孤独だけを得て悲しみに沈む。
(でも、だからこそ)
瞬きの間に終えてしまいそうな刹那ならば、交わることもできる。
この、黄昏のように。
千振まち》Moroccan Roll | 写真素材》Infinite Glider