敗走


 初平四年。西暦192年。
 少々の銀銭を懐にしのばせ、愛馬を連れて燃える洛陽を後にした。途中、不愉快な連中に追われたが、洛陽が燃えている時点で愉快とは言い難い状況なので、何の感慨も無く彼らを斬り伏せて逃げて来た。
 半日脇目も振らず駆ける内に、いつの間にか自分の居る場所が掴めなくなっていた。


 「この辺は陳留です。南は許昌、北は濮陽に通じていますよ」


 地元民がそう教えてくれた。陳留という事は、此処から東へ二,三日行けば、袁術が治める寿春に着く。
 そう思って発とうとした矢先、此処まで休み無く自分を乗せて駆けてくれた愛馬が、血が混じった泡を吹いて死んだ。無理もない、洛陽に居た頃は殆ど乗る事も無かったのだ。


 「弱ったな…、寿春まで行かねば当てが無いのだが…」


 途方に暮れていると、妙な一団が目の前を通りかかった。出で立ちや様子からして何処かの軍のようだ。この時世、軍など腐るほどあったが、唯目を惹いたのは、陣頭を往く赤い馬に跨った偉丈夫だった。
 偉丈夫は道の傍らで佇む女と、彼女の足元で赤い泡を吹き死んでいる馬を見て、足を止めた。


 「おい、女。その邪魔な死馬を持って失せろ」


 偉丈夫の圧倒的な気迫に呑まれそうになった。


 「此れは私の馬です。目的地も遠いというのに、死なれて困っております」
 「ふん、そいつは難儀だな」
 「死馬は自力で処理致します故、道を掃く駄賃として、将軍の馬を一頭賜りたく存じます」
 「なんだと?」


 身分も解らぬ女の無礼な言に、偉丈夫やその将兵達が激怒するより早く、彼女は死馬の鬣をむんずと掴むと、片腕でその巨体を引きずり、土手の下へと運んで行った。
 女が土手を登り再び偉丈夫の前に立つと、息一つ乱さず、毟れた鬣を払いながら"片付けました"と一言告げた。
 思わぬ怪力を見せ付けられ、唖然とする将兵達を余所に、偉丈夫は高らかに一頻り笑うと、口元に笑みを湛えて返答した。


 「大した怪力だな、女。面白い、名乗ってみろ」
 「はい、と申します」
 「、か。覚えておこう。――おい、丈夫そうな馬を一頭選んで、こいつにくれてやれ」
 「御厚意痛み入ります。この御恩は、いつか将軍の下へ自ら馳せ参じ、直接お返し致したく存じます」


 と名乗った女は、身形は貧しいが、礼や作法を些かは身に付けているらしく、恭しく一礼すると、賜った馬と共に道を空けた。
 偉丈夫の一軍が去ると、は新しい馬に跨った。流石、鍛えられた軍馬は馬体そのものが逞しかった。これなら二,三日駆けた所で潰れはしまい。


 「そういえば、先方のお名前を聞きそびれた…」


 そうは思ったが、今更追いかけるのはあまりに不格好だ。名が解らなければ恩の返し様も無いが、焦らずとも、はあの偉丈夫の名を後に知る事になる。

 六年後。建安三年、西暦198年・冬の下邳に於いて――――


- 敗 走 -


 「援軍の要請ですか?」
 「ああ、呂布からな…。まったく、我々にまで面倒事を押し付けおって…!」


 竹簡と睨み合いながら、袁術は忌々しそうに吐いた。


 「そうは仰いますが、結んでいる手前、助勢せぬわけにもいきますまい…」
 「それもそうだ。――よし、呂布には増援に応じると返答する!皆、急ぎ戦支度を整えよ!」


 袁術は臣下の者達にそう通達すると、自らも支度に向おうとする将を呼び止めた。


 「。此度の戦、御主は後方に控えて居れ」
 「何故ですか?」
 「相手はあの曹・劉両軍だ。危急の時、御主には儂の背を守って欲しい」
 「…御意」


 短く答え、一礼すると、は足早にその場を後にした。

 寿春から急ぎ戦場・下邳へと向った袁術軍だったが、勝敗は既に決しているも同然だった。下邳城は水攻めに加えて敵の大軍に完全に包囲され、窮地の友軍は城から打って出る事すら侭ならない。


 「此処まで押されているとは…。これでは我が軍が参戦しても、良くて兵力差の――」
 「負け戦に手を貸す義理は無いな…。引き上げるぞ!」
 「なんですと!?袁術殿、貴殿という方は…!」
 「言うな、。此れも乱世の理だ」
 「…馬鹿なっ!」


 は吐き捨てるように言うと、袁術の制止も聞かずに、馬を返して下邳城へと駆け出した。
 敵が包囲している城門を迂回し、裏手の比較的手薄な包囲網を斬り進み、城壁の上へ向って声を張り上げた。


 「私は袁術軍のだ!呂布殿は何処におわすか!!」
 「その旗印、確かに…。暫し待たれよ!」


 呂布を待つ間もは周囲の敵兵達と戦い、何とか突破口を開こうと奮戦していた。すると、城壁の上から声を掛けられた。
 見上げる先には、豪奢な鎧を纏った偉丈夫。その顔には見覚えがある。六年前、愛場に死なれたに軍馬を与えた、あの偉丈夫だ。


 「呂布殿!貴殿に頂いた馬は此処に!袁術軍、六年前のご恩をお返しに参上致しました!」
 「ほう、何時ぞやの怪力女か!律儀に恩返しとは感心だな!礼を言うぞ!」


 呂布の言うとおり、馬一頭に対する恩を、六年間も忘れずに居たは律儀である。あの時からこうなる事を見越していたわけではないが、或いは何処かで再び相見える事を予想していたからこそ、人間の貧しい袁術の元に、六年間も留まっていたのかも知れない。
 が、今はそれどころではない。は周囲の状況等を手短に説明すると、呂布には逃げろと具申した。


 「この重厚な包囲網を突破して、逃げ遂せる事が可能だと思うか!?」
 「退路は私が確保します!支度が整いましたら、殿軍は私に任せてお逃げを!」
 「ふん!六年も経つと随分立派になるものだな!袁術などではなく、我が軍に欲しいくらいだ!」
 「ならば、貴殿が天下をお取りになる際は、是非麾下にお加え下さい!」


 城壁の上と下での会話はそこで終わった。城の裏手に袁術軍の武将が居ると聞いた他の敵軍が集結し、の周囲を取り囲んだのだ。は髪を振り乱し、顔に吹きかかる血飛沫も気にせず、一心不乱に敵を斬り伏せた。彼女を乗せた馬も流石に泡を噛んでいる。
 それでも半分近く包囲を削ったが、"これ以上防いでいられるか…?" そう思った時、城門が勢い良く開かれ、赤い馬に跨る偉丈夫が躍り出た。


 「りょ…呂布だぁっ!!」
 「退けっ…退けーっ!!」


 呂布の恐ろしさを知る雑兵達は、腰を引かせながら後退る。それでも尚向ってくる者に対しては、が斬り込む。


 「現状ではこれが限界…!呂布殿、ご武運を…!」
 「ああ、恩に着る!――、生きて俺の天下を見届けろ!お前はその資格がある女だ!」


 そう残して、呂布はが削った包囲網へと飛び込み、愛用の戟を振るい敵を薙ぎ倒す。彼に続くのは、身の丈よりも長い鉤鎌刀を引提げた将、そして可憐な美姫。奇妙な取り合わせだと思ったが、それが呂布らしいとも思った。
 彼らが包囲網を突破した後、斬り開いた傷口は完全に塞がってしまった。前方には無数の敵、後方には水没した城。


 「…六年間無為に過ごしたが、どうやら私も乱世に楽しみを見出せそうだ…」


 は馬を降り、群がる敵兵の中に突進した。

 呂布の勇名は常々耳にしていた。当時それがあの偉丈夫だとは知る由も無かったが、彼の武は多くの者が認め、恐れるほど強大だ。それほどの武ならば、たとえ戦況が不利になろうとも、彼自身が戦って負ける事は無いと思っていた。
 だからきっと、これしきの包囲網を突破して逃げ延びてくれるだろう、と…。

 どれくらい戦っていただろう…。何十人斬っただろう…。そんな事も解らなくなるくらい、何も考えずに戦っていた。その時、何処かで叫ぶ声が聞こえた。

 "総大将が討たれた"

 総大将…? どちらの…?


 それに気を取られたほんの一瞬。の身体を一陣の風が切裂いた。よろける身体に鞭打ち、足を踏ん張り顔を上げると、目の前で一人の兵士が血塗れの刀を手に震えていた。
 は渾身の力を込めて刃を振るった。怯む敵兵を鋭い眼光で牽制し、愛馬に跨る。そのまま馬の尻に鞭を入れ、群がる敵兵達を容赦無く蹄で蹴散らしながら、夢中で包囲網を突破した。


 「くっ…不覚…!」


 手綱を握る手には力が入らず、もう片方の手で押さえている傷口からは鮮やかな赤が溢れる。
 兎に角我武者羅に走って、南の淮南を目指した。否、実際目指してはいたが、最早方角など解っていなかった。血の気が引き朦朧とする意識の中、唯直走り続けた。

 だいぶ長い事走っていた様だ。いつの間にか愛馬は、走るのを止めてゆっくりとした足取りで歩いている。失血のため暫く馬上で失神していたらしいが、よく死ななかったものだ、と呑気に考えた。
 見た所この辺りは山道の様だった。は馬を道から逸らし山中へと進める。
 少し行くと、休むのに丁度良さそうな場所を見つけた。馬を手近な木に括りつけ、自らは巨木の根元に腰を下ろす。


 「呂布殿は……無事、逃げ切れただろうか…」


 独り言を呟くのすら億劫だった。自分が如何に消耗しているかを再確認させられた。


 「ふっ…袁術の元で無為に死ぬよりは、この方が良い…」


 そう呟き、鼻を寄せてくる愛馬を優しく撫でる。
 しかし、安息は極一時のものだった。四方から近づく、複数の足音。考えてみれば、これだけ出血しているのだから、辿ってきた道には血で道標が書かれているはずだ。
 この期に及んで生き延びる事は難しいだろうが、ただ死ぬ気も無い。は護身用の短刀を抜くと、胸の前でそれを構えた。既に視界は汗や血で霞んで碌に見えない。


 「呂布殿の天下…見届けたかったが、一時でもこの時代に楽しみを見出せた…それだけで、十分か…」


 そう、言い終わるか終わらないかの刹那。前方の茂みから複数の人影が躍り出た。各々武器を携えるその面々の詳細を、霞む目で何とか捉えた。

は、唯、自嘲気味に笑った。


糸冬


完結:2006/09/03
進呈:無双三國志夢祭様へ

自分なりに精一杯書きました。
最後まで読み通して下さり、有難う御座いました。

執筆:ちろ松 [HP]世の珍妙