手離す



雨が降っている。



耳を澄ませばしとしとと、まるで閨での愛する人の寝息のように、柔らかな気配。

天空からさやさやと止め処なく毀れては落ちる水ども。
あるものはその腕を空に向け広げる木の幹に雫を結び、あるものは薄い体を風に任せる若葉をしっとりと濡らし、あるものは闇の中に立ち尽くす男の輪郭をなぞる。

糸のごとき雨の雫に重ねられる鮮やかな光の色は今は無い。
ただぼんやりと、屋敷より漏れ出る淡い灯火が、静かな雨を優しくぼかす。

雨の気配はそれを抱く闇にも似た、静かな夜である。


男が立っている。

彼を雨から覆うものは何も無い。

無から生まれ出ずる清らかな水はただ彼の体をしとどにぬらす。
色の失せた彼の頬を雨粒とも涙ともつかない雫がつうと伝い落ちた。

短く切りそろえた彼の髪からもぽたり、ぽたりと雨は大粒の形を成して、滴り落ちる。

何時しかじっとりと重みを増した紅蓮の衣装は闇と雨とに溶けて彼の体に重く纏わりついた。


「伯言さま」


凛、と唐突に空気が涼やかな音色でもって震える。
その声色は彼に絡みつく闇と雨とをすぱりと断ち切った。

彼を覆う深い夜が一瞬揺らいだ。
僅かに彼の肩が上下する。

乙女の一足ごとに雨の中に花の香とまごう甘い空気が立ち混じる。
その気配はその夜の雨にも似てたおやかだった。

伯言と字を呼ばれた男は、暗い眼差しで背後に立った乙女を見やる。


漆黒の瞳を優雅に囲う彼女の長い睫にもまた、雨が雫となって形を結ぶ。
彼女が瞬いた瞬間に、はらりと雫は玉となって滴り落ちた。


彼女もまた、彼と同じように雨にその身を打たせていた。
纏った淡い着物も重たく染まる。


ざぁ。


風を伴った横殴りの雨に打たれて、乙女はかすかに目を閉じた。
整えられていた髪が乱れ、彼女の白い頬に後れ毛が申し訳なさそうに張り付いた。


「どうしたのです?濡れてしまいますよ…さん…」


陸遜は冷え切った手の平でそっと乙女の頬を包んだ。
その手は雨からを守るかのごとく優しくその顔に翳された。


伯言と呼ばれたくらい眼差しの男は陸遜である。

雨夜、彼の抱いた悲しみに寄り添わんと闇に足を踏み出した乙女の名はである。


の頬に手を添えた陸遜の声色に先ほどの眼差しほどの暗さは無い。

輝きを取り戻した彼の琥珀色の瞳に優しさと誠実さが還って来る。
色の失せた頬、それでもうっすらと笑みを湛えた口元に、冷たさは無い。


は陸遜の手の冷たさが自らの温もりに溶けていくのを切なく感じた。

「私では無理なのですか…」

「何がです?」


此処へきて陸遜の眼差しも笑みに溶ける。
春風を思わせる彼の優美なかんばせが優しくだけを映しこむ。

唯一の前でだけ、何時もきりりと冷たい印象で固まった陸遜の眼差しは、優しさを抱く。

とて、その真実を痛いほどに知っている。
だから彼女は、今宵陸遜の心に手を差し伸べる。
今までに受けた優しさと愛とを…彼に還したい一心で。

も陸遜の愛に応え得るだけの愛をその身に秘めていた。
いや、彼女は陸遜の心が湛えるあまりに冷たい泉に指を浸し、その手が凍え、これから先何ものかに触れる喜びを己の指先が喪うとしても。
構いはしないと覚悟を決めた。


今日雨の中一人佇む男の後姿にが渾身の勇気を持って声を掛けたのはその所為である。


「今宵もまた…一人で何を闇に描くのです…」


陸遜の笑顔からつい、と顔を背け、小さくは呟いた。


予想もしなかった答えに陸遜は目を見開き瞬いた。

微かに震え、白い首筋を夜に晒したに、直ぐに二の句が告げなかったのはその所為である。

ふ、と柔らかく彼は吐息を漏らした。

衝撃が去って行った後に彼に残った感情は緩い笑みである。
真夏の霹靂がもたらした雷雨の後に爽やかな風が木の葉を揺らす、あの感情である。


「…さん…」


彼の冷たい指が、つう、との頬をなぞった。

の無垢な肌に伝うのは雨の軌跡か思いの輝石か。


込み上げてきた愛しさに陸遜は乙女の体を静かに抱き寄せた。

じっとりと水気を吸った衣装の狭間で、温められた水と鼓動がぴたりと重なる。

抱きしめられたは何も言えない。
ただ切なさが彼女の胸を去来する。

陸遜の愛情を信じて尚、彼女がそれに溺れきれないのは、彼女の出生故である。
彼女の父はかつて小覇王として名を馳せた孫伯符その人である。
は父が陸遜の縁故の者に与えた仕打ちを知りすぎるほどに知っていた。
それは彼女の不幸である。


揺らめくの瞳の輝きを見知っているまま、陸遜はその瞼にそっと唇を寄せる。

彼の唇を伝った雨粒が、のそれも伝って落ちる。


今宵もまた、精一杯の勇気も空しく、彼の心に触れることが叶わなかったと、静かには瞼を閉じた。
彼が時折一人虚空に眼差しを据えて佇む理由。
はその理由を察していた。
陸遜が極めてから遠ざけていたその真実に、が到達し得たのは、自身の聡明さの所為であり断じて陸遜が仕損じた為の結果でない。
人の数倍努力して、誰よりも孫呉の為に心を尽くして…それでも…彼は所詮はかつての仇の一族であるという呪縛からは逃れられないという残酷な現実を… は口さがない者達が風に乗せる言葉の端々から察していた。
それなのに…何一つとしてに苦労の色を見せはしない。
それどころかむしろそうした流言飛語に必要以上に自分が心を痛めぬように心を砕いている節もある。

そうした陸遜の優しさは、の心を狂おしく締め付けた。

時には己と彼との上に宿った因果を悲しんだ。
運命のままに導かれ、愛し、愛されてしまった運命を…切なく思った。





雨が降っている。





震えるように眼差しを長い睫で静かに閉ざしたの心の揺らめきを、陸遜は知りすぎるほどに知っていた。

お互いを愛してしまったが為に、絡みつく因果に心を焼かれる。
の苦しみはそのまま陸遜の抱く苦しみとぴたりと重なる。

そっと唇を吸った後、自らの心の痛みを抱きしめるように、彼はを抱きしめる。
この仕打ちはやはり残酷だろうかと彼は愛しい温もりを体で感じながらふと迷う。


陸遜は呉の将である。
しかしかつて陸家に刃を突きつけたのは、孫呉の礎を築いた孫家である。
二人の感情に関わらず、この関係は傍から見れば政略結婚以外の何ものでもない。
いくらとして陸遜の体と魂とを愛そうと、陸遜が陸遜としての全てを愛そうと。
そのような感情は世間の前には無為である。


それを承知するが故に、精一杯の思いやりで、不安な心を情熱に隠す。
傷つき、ぼろぼろになった本心をひたすらにの目から隠すのは、愛する人を思いやるがための行為である。

陸遜は精一杯の優しさを込めて、を抱いた。

そうすることでしかを守ってやれない非力を彼は憎んだ。
自分自身の優しい仕草に彼は心を深く抉られた。

陸遜の優しい仕草にの睫の狭間から熱い雫が溢れ出た。
の睫に乗ったきらめく粒は雨に絡まりはらりと滴った。


抉られた彼の心に、の涙が焼け付く痛みを与える。
愛するものの聡さで直ぐに彼は彼女の涙を知った。
知っていながらその涙を拭うことすらできず、彼はただ優しい抱擁を与え続けることでしか彼女の思いを掬い取ることが出来なかった。



を狂おしく愛するほどに、彼の心は傷を増やした。

そしても陸遜から愛されるほどに、心に深く傷を負った。



おずおずと、彼の背中にの手が回る。
その手は彼の服を皺ができるほどにきゅ、と掴まえる。

儚い願いの込められたその力を陸遜は限りなく愛しく、そして哀れに思う。

何に対する願いか、もちろん陸遜は知っている。
いじらしい覚悟…いじらしい願い…
身を任せることは酔い以上に甘美で魅力的な夢である。

陸遜の若い心は再び迷いの中を揺らめく。
せせらぎに洗われる水草の如き感情に似ている。
透明な水に柔らかな藻はきらめきながら泡に揉まれる。

が言外に望むがままに…心の内に凝った自分でも触れきれないほどの冷たい塊を全て曝け出せば良いのだろうか。

彼の心は迷いと願望の狭間を不安定にたゆたう。



迷い苦しむ彼の上にも、祈り願う彼女の上にも、分け隔てなく雨は降る。



静かな時が二人の間に静かに満ちる。
その空隙を埋めるのは降りそそぐ雨の静かな気配のみである。

今二人の世界に生きるものは、水を吸った重たい衣服と生ぬるい温度とで隔てられたお互いの魂だけである。



やがて睫の下の陸遜の双眸が、覚悟を秘めて淡く輝いた。



抱く不安を形に変えて、欲望と情愛の求めるがままに手離したなら、この危ういけれども清く美しい関係が歪んでしまうだろう。
そして何より、よりいっそう彼女の心は自らの抱えた宿業と現実との重さに耐え切れず、哀しみの海へと沈んでいってしまうだろう。

自らの救いと引き換えに、この愛しい人の魂を縛り付けてはならない。

それが愛する人へ…捧げることができる…唯一の。


するり、との手が陸遜の背から離れた。


それは彼女の声の訪れと同じように、凛と滞っていた時間を裂いた。


手は滑って陸遜の腕に添えられる。


つ、と抱擁から逃れたの顔に浮かぶのは優しい笑みである。


天女のような表情に、陸遜は息を呑む。


「…冷えてしまいます、伯言さま…」


の声は努めて明るい。

いったん目を伏せ、優しい仕草では陸遜の手を取った。


手の平から伝う温もりに、陸遜はこごった頬を再び甘い微笑に溶かし、ぎこちなく一つうなずく。



静寂の中、抱き合った。
狂おしい心のまま、口付けあった。

雨と闇とが満たすあの永劫とも就かぬ刹那の抱擁に、彼女は何を知ったのか。
もう私の心にどんなにか手を伸ばしても触れることなど出来はしないと…諦めたのだろうか…

に手を包まれたまま、その美しい横顔を陸遜はじっと見つめた。
隠し通したかった自らの心の闇から愛し、守りたかったその人が手を引いた。
それは彼が望んだ状態であり、また安堵しなければならない場面であるのに関わらず、彼の心に残された感情はある種の物悲しさだけだった。

色を深くした彼の艶やかな髪に絡んだ雫が玉となって頬に伝う。


陸遜の視線に気がついてふわりとは彼を見上げた。


闇を含んだ彼の眼差しに、少し悲しそうに微笑むと、はつう、と背伸びをしてその耳元に囁いた。

「…私…知りました……本当の、意味…」


陸遜は静かにを見つめた。



「…愛しています…伯言さま…」



夢にも似た淡い吐息と共に、虚空に燦然と輝く星のような言葉がの唇から毀れ出た。


愛の言葉をから聞くのは初めてではない。
陸遜とてに愛の言葉を囁いた回数も数知れない。


しかし今宵のの言葉は稲妻のように彼の体と心とを貫いた。


その瞬間、彼も真実を悟った。


がまた、陸遜の手を取った。
照れたように頬を染め、は軽く微笑んだ。

陸遜は手を抱かれたまま、虚空を見上げた。

彼の頬に雨では無い雫がつぎつぎと生まれては滔滔と流れ出た。
堰を切ったように流れるは、彼の涙だった。

それは夜をけぶらせる雨に静かに溶けた。


さん…


再び俯いた彼の頬に浮かんだ表情は、先ほどが浮かべていたそれと良く似ていた。

「…私も…愛しています…」

声が震えぬように腹に力を込めるのが精一杯だった。


愛という言葉には相手の全てを許すという優しさが込められているのだと。

愛していると心を込めて誓い合ったその瞬間は…お互いの全てを許しあうと…そう誓い合った瞬間でもあるのだということを…



は愛する人の心の冷たさに手を浸すことを悲しく諦めたのではない。
冷たい心を抱く陸遜の魂ごと…許して愛する覚悟と強さとを…焼け付くような情熱と息が止まるほどの静寂の中手に入れた。


彼女が手にした愛は永遠である。
彼女が永遠を手に入れたのは、彼が自分を傷つけてまで彼女を愛した所為である。

彼女が得た永遠に触れて、彼の愛も永久の安らぎを手に入れた。



陸遜の指がの指に絡みつく。

そっとが見上げた先には、穏やかで優しい彼の顔。


「随分と冷えてしまいました…」
「温まりましょう…?」


を優しく見つめ、陸遜はただ頷いた。





手を繋いだまま寄り添って、屋敷へ戻る二人の上にさやさやと天空から水の雫が舞い降りては形を結ぶ。
大地から立ち込める雨の香りは夜を乗せ、静かに琴を爪弾く人の瞬きにも似た微かな色である。



雨が降っている。





-終-




(C)湖龍”虚無への供物"
提供素材”NOINO


心を込めて