炎に見る夢   

 酔った聴覚にも、虫の音は涼やかに鳴く。
 無聊を慰める宴にて痛飲した直後。夏侯惇が苦い笑みで飲みすぎることをたしなめながら、部屋へと介抱してくれたのを覚えている。それから後は寝台で泥のように眠りこけたのだろう。
 目を覚ましたのは、ひどく頭が重いからだった。
 虫は闇の中に鳴いているのである。
 水を飲みたく欲しても、重い頭痛が倦怠を誘う。結局寝台の上で寝返りを打つのみだった。が、渇いた体内は潤いを満たさずして、眠りを求めなくなる。しばらく頭の痛みにうめいて寝返りを繰り返していると、微かな音を耳に止めた。
 息を詰めて足跡の気配を窺う。忍んでいる足だったから、典韋は酔っていながら緊張した。己が主・曹操はその才智といささか強引な性格ゆえ、敵が多い。闇の刺客も二、三度ばかりではないのだ。そして、その闇中で曹操を救うのは、この自分の役目と以て任じていた。
 ……ほとほとと足音は近づいて、この部屋の前でやんだので、彼は扉へ目をやった。仄明るい秋の星あかりに、格子ごしの短い影が目に留まる。細く扉が開けられて、密かな客人は猫のように身を滑らせ、侵入してきた。――扉を閉じる。
 ――誰であろうか、と考えていたが、すぐに疑問は氷解した。歩を運ぶ音に、衣ずれのそれが混じる。それに、元々部屋の闇に目の慣れている典韋である、寝台へ近づく影の結い上げた髪が誰かと思い当たる。
 曹操の娘、だ。
 彼女はそっと寝台の横に膝をつき、いつになく穏やかな微笑を目元に寄せて典韋を見つめる。寝る振りをしながら彼女を薄目に確認すると、不意に頭痛がやんだ。――いや、やんだというのは語弊があった。頭痛は元のままに、緊張が体の奥を締め付ける感じがする。その痛みが頭痛より大きいだけなのだった。
「……姫」
 寝台の上で上半身を起こし、夜の中で主人の娘を見た。
「今度は、何の用ですかい」
 今までも典韋の部屋へ忍んで来るだから、驚くには今さらすぎた。
「夏侯惇様が介抱してたぐらいだから、だいじょうぶかなって思ったの」
 答える笑い声が闇に咲いた。
 ゆっくりと立ち上がり、寝台へ腰をかけて顔を典韋へと巡らせる。
「平気なの、典韋様?」
「姫から心配されるほうが恐れ多いですよ」
 典韋は口元に苦笑いを浮かべ、頭を掻いた。すると目の前で、が弾ける声で笑う。
「平気みたいだね、典韋様。……驚いたの、父様の横にいたらね、たくさんお酒を飲んでいた典韋様が、急に伏して大きいいびきを掻いて寝てしまったから」
 微笑の残る声で宴の席での思いを口にする。それから寝台から跳ねるように腰を上げて、彼へ正面を向けた。が顔を近づけると、その表情は年下の子をたしなめるような高慢な笑みを浮かべていた。……むしろの場合、常においてが傲慢なのであるが。
「それじゃ駄目だよ、典韋様」
「何が、駄目なんですか、姫」
 寝台の上であぐらを掻いたまま、彼はの顔をまじまじと見つめた。闇にも仄かに、彼女の頬が赤く染まるのを知る。
 は火照った顔で、瞳を輝かせ、
「それじゃ私のこと守れない。私に何かがあったとして、その時に今夜みたいなことになっていたら、典韋様は私のことを守れない」
「……あっ」
 典韋は目を見開き、腰を浮かせかけた。の自己勝手な注意を聞きとがめ、脳裏に過ぎたのはとその父曹操である。
 彼女の注意は正しい。を曹操に変換すると、まさに典韋は彼女の注意の重大さを悟る。――すなわち、曹操が憂き目に遭った時、自分が酔い潰れてしまったら。
 曹操を身近で守るは自分と、確信していたはずなのに。
「……姫。目が覚めましたぜ」
「ええ!?」
 何故かが驚きの声を上げたが、それに構う心の余裕を、まだ典韋は取り戻していない。
 ――としては、まさか「私のことを守れない」という自分の言葉を、典韋がそのまま受け入れてくれることはないと思っていたのだ。そのことを典韋が気付くはずはなかった。
「……殿の御身を守れなくなる。それは確かですな、姫」
「なんだ……また父様か」
「それで俺の身まで危うくなっちゃ、殿の身も守れなくなりますな」
「うん、うん、そうだよね」
 相槌を打つの声の調子は、投げ槍である。彼女はつまらなそうに典韋の前に腰を下ろした。が、すぐに、何かに気がついたように素早く顔を振り向けて、
「典韋様の身が危なくなるなんて、嫌だからね! 典韋様、これからお仕事の時はお酒を飲んじゃ駄目!」
 早口でまくし立てるを、我に返った典韋の目が見張る。その正視に構わずは寝台の上へ膝を乗り上げ、彼の膝をゆすった。
「約束してね。危ない目を見ないでね。お酒がそうすると言うのなら、お仕事の日はお酒を飲んじゃ駄目なんだから!」
 眉を寄せた切ない顔で、必死に訴える。その狼狽を見つめつつ、典韋は「はい」と頷いた。
「本当? 本当よ?」
「約束しますよ、姫」
 言葉にして確定してもはまだ不信の色を目にかぎろわせ、「ん」と右手の小指を突き出した。その指に典韋も同じ手の小指を絡ませる。彼女の指の細さに驚いた。
「きっとだからね、典韋様」
 小指を絡ませたままはやっと笑った。太陽が昇った。典韋はそう感じる。実際、まだ夜は明けなかった。



===:===:===


 ――目を覚ました時、酒の残る頭痛を覚えたけれど、それどころではないことを知った。
 横たわっている部屋は紅蓮の炎に囲まれている。先ほどまで、酒の相手をしていた胡車児がいない。同時に得物が無くなっていることにも気付いた。
(謀られた……っ!)
 心の内に叫んだのと同時、典韋は部屋の扉を破って廊下へと出た。張繍が招待した小城はあらかた火に包まれている。その中を主人を求めて走った。
 こんなことが起こるなど、予想もしなかった。張繍は曹操の下に膝をついて、逆らうこともないと思い込んでいた。だから張繍の部下を名乗る胡車児と、思うままに盃を重ね、いつぞやのようの酔いに任せて眠ってしまった。
(……言い訳だぜ)
 走りながら自責の念を抱いた。今さら言っても遅いのである。今はただ、曹操の無事を確認し、安全に逃がすこと、それだけだ。
「典韋殿……!」
 炎の中から呼び止められ、顔を向けると曹操の長子・曹昂が駆けてくる。
「若、殿はどちらに!?」
「常と同じ部屋にいる。私はすぐに馬を取りに行く、典韋殿は父を頼む!」
「はっ!」
 言われるまでもなかった。会話をしながらも先を急ぐのをやめない典韋である。曹昂が厩へ走り去る前に、もう走る速度を上げていた。
 それにしても、曹昂を炎の中で見とめた瞬間、その異母妹・をかぶって見たのはどういうことであろう。似ているところが一つもないのに、兄と妹が一瞬典韋の視界に明滅した。
 ――姫。
 曹操の憂き目に酔い潰れたばかりか、さらに彼女の約束まで破った。張繍に対してより、胡車児に対してより、……自己に対して許せぬ心が先立つ。
 果てはこの命と引き換えても、と普段から心に誓っていることを繰り返す。
(俺の命と引き換えにしても、御大将は、この宛城の地獄から脱出させてやる!)
 それが、自分に課せられた忠義であると、彼は信じた。
 信じる強さを胸に再生させて、典韋は身の危ぶまれる主人の元へと急いだ。――



こんにちは。作者の弓月です。
読んで下さりありがとうございました。
サイトにも同ヒロインで典韋夢を置いてます。
これをお読みになって、興味がありましたら、
ぜひサイトのほうもご覧くださいませv

Write:2006/09/01
Writer:弓月綺
Theme:「杜康(酒)」
Home:Garnet〜禁断の廃園〜

html:小説HTMLの小人さん