その後姿はもう二度とこの眼に映ることは無いと思うと、心が痛むのは何故か。





弓腰姫として名をはせた孫家の姫は、劉備に嫁ぐこととなった。

煌びやかな花嫁衣裳はいつものあのじゃじゃ馬と兄の呉主に言わしめたその姿を垣間見ることは出来なかった。

もう聞くことはないだろうあの軽快な足音。
見つめてくるあの大きく、真直ぐな瞳はもうこの姿を映すことはないのだ。











華 燭













それは、この結果を生んでしまったのは、あの時の進言。
劉備と手を組む。
それを決断させたのは、何を隠そう己ではなかったのか。

其の為の婚儀。

それは劉備との繋がりを強くするためのもの。






「変わりないか?」


あの快活はこの耳に届かなくなり、かわりに届くのはしっとりと落ち着いた声。


嫁いでいった尚香の姉にあたる方。


「まだ引きずっているのか?」


様・・・・・・・何の事を言っていらっしゃるのか」


解らない、何故このようなことをこの方はいうのか。
嫁いでいった姫とは何の関係もなかったというのに。

ましてや、手の届く方とも思ってもいない。

一度もそう思ったことはないのだ。



「気づいていないのか?」

「は?」



見上げれば、それは彼の方の面影をもつ女。
それはそうだ、あの方の姉にあたられる方なのだから。

だが、違う。
あの方ではないのだ。




「馬鹿だな、見ているこちらのほうが苦しくなるというのに」


「解りかねます、こちらのほうが聞きたいくらいなのですが」


「本当に?」



まるで心がざわめくような、この言葉。
落ち着かない。

その瞳は、かつてあの方がしていた瞳と同じではないのか。
真直ぐで、そして心の奥底までも見透かされそうな、その光。



「そう、思わないようにしているのか、それともそれ自体に気付いていないのか・・・・・・・」



やれやれ困ったな、という表情をする。
まるで、鮮やかな夏の太陽を思わせる姫の姉は妹とは違い真冬の青空のような高く澄んだそんな、女。

まったく違う。



「私に尚香の面影を探しているようだがな、魯粛」



ざくり、と鋭い何かが、胸に突き刺さるような、言葉。



「は・・・・・・・・何をお言いになりました・・・・・・・?」



そうだ。
なぜ、いつの間にか、この方にあの方の姿を探していたのだろうか。
何故いつも、あの方が好んでいた場所や、好きだったものに目がいってしまうのか。

どこかでいつもあの方を探しているのか。



「好いていたのだろう?尚香のことを」



止めの一言に、なにも返すことが出来なかった。



様・・・・・・・・・」



情けないことに出た言葉はまるでこの方に救いを求めるような弱弱しい声だった。
違う、と否定をしなければ為らない筈だったのに。
なにも出てこない。

好いてた?

あの姫を?


好いていた。


そうだ、そうだったのか。


「本当はもっと早く教えてあげればよかったのだろうけど」


すこし、寂しそうなその笑顔の を俺は見ることが出来なかった。

もうすでに当の姫は遠い場所。


「ははっ・・・・・・・ 様!俺って馬鹿ですよね」

「魯粛」


「どうせ、周瑜殿が心配したんでしょう?このところ俺が仕事を疎かにしていると」


しかもよりによって、寄越した女があの弓腰姫の姉君であり同じ面影を持つ女。


「俺って馬鹿だなぁ・・・・・・・馬鹿だよ・・・・・・本当に」



あの姫は『特別』だったから。
気付かないでいた。


「魯粛、私がお前を尋ねてきたのは周瑜に頼まれたわけでもない」

「えっ?」

「尚香からお前にと預かったものがあったのでな、それを届けにきたのだ」



それは、細く軽い剣。

ああ、憶えていますとも。

弓腰姫と始めて出会ったときに持っていたものですね。
兄である孫策から贈られたという剣。

大事そうにまだ幼さのある面影で剣をもっている少女なんてほかに見たことがなかったから、強烈に憶えていた。

忘れられる筈はなくて。

あの大きな真直ぐな瞳で一生懸命見上げてきた少女の輝きが心を捉えて離さなかった。



様、俺はきっと一目ぼれだったんだと、そう思うのです」


様は一言だけ、そうかとつぶやいた。



あの軽快な足音がなぜこんなにも心地よかったのか。
いつも姫にこだわりを持っているが何なのか、それは考えてたことがなかった。

あの姫にも関わらず戦場に出て行く後姿。
そして、煌びやかな花嫁衣裳の後姿。

もう、その姿をこの目に止めることは出来ないのだろう。


わだかまりが解けたことは嬉しいのだが、この胸に去来する寂しさと少しの悔しさをきっと後悔というのだろう。


ようやく少女と呼べるようなった尚香が持っていた剣。
もうこれは使われなくなってどれくらい立ったのだろうか。

姫は覚えていてくれていたのだろうか。
あの日、初めて出会った真夏の日を。

真夏の太陽よりも眩しい輝きを持った姫。

澄んだ空のようなもう一人の姉姫はふっと満足そうな表情をしていた。



「ではわたしの用は済んだな・・・・・・失礼しよう」

「あ、お送りいたしますよ」

「良い」

「送らせていただけませんか?道すがら俺の馬鹿な失恋話でも聞いていただきたいのですが」



様には感謝しているのです。



「そうか、では周瑜にも、な」


くすり、と女は笑った。


「・・・・・・ええ充分すぎるほどに」

「ああ、それは良いな」



くすくすと笑う 姫は、やはりあの方に尚香に似ていて、胸が痛んだけれど。

その痛みは悪くなかった。





華燭の日、孫家との結びつきを深くするために嫁いだ尚香姫の姿はあの日出会ったままの輝きだった。

何もあせぬままに、輝きは今もなお変わらない。









秘めた想いは煌びやかな花嫁衣裳の後姿とともに、遠く消えていった。






















「あのう・・・・・・・・ さ、・・・・・・・・」


「なにか?あなた」



ま、の字はごくりと喉に飲み込まれた。



「まだ慣れぬのか?」


無理なことを仰る、この方は何の縁でか今は己の妻。
なんというか、友人の周瑜に嵌められたというか。

切ない想いを抱いたかの姫の面影を持つ姉姫である がまさか商人上がりの妻に納まるとは思っていもなく。


「あー俺なんかでいいんですか?本当に」

「ちょうど良いのではないか?私で」


まぁ確かに。
あの時から他の女なんて誰一人近づけていなかったと思うと、隣にいつの間にかすんなり近づけたのはこの姫様だけ。


「ふふ、安心しろ。妹に嫉妬など私はしない」

「そんなことを言っているわけでは」

「それとも私では不満か?」

「滅相もございません!」

「では何も気にすることはない」


しっとりとした落ち着いた声は、何故かこの胸に安堵を呼んだ。
それが心地よいことを知ってしまった。


今度は、決して離さない様に。


決して振り向かなかった、あの姫の後姿をに。
ようやく背を向けることが出来る。






「・・・・・・・・畏れながら、大事に致します故」


煌びやかな花嫁姿の の手を取った。







そして、俺も二度と振り向かない。

























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