『若い頃の苦労は買ってでもしろ』

幼少の頃から教え込まれたこの言葉

これまで律儀に守って過ごしてきた

けれど、これほど身の上の不幸を呪ったことはない










初 陣











、今後はこの書にある通りですから」

朝一番。陸遜の満面の笑みに小さな幸せを噛み締めながら、 ―副将候補生― は書簡を恭しく受け取った。候補生になってから数年。呉の領内を転々とし、昨年は山越賊との連戦続きだった。そして年が明け、孫権が築城したこの『石頭城』への異動を命じられ、今日は初登城であった。

中央執務室に向かっている途中、密かに憧れていた陸遜から呼び止められた。詳しい仕事の内容はまだ知らされていない。しかし数多の武官・武将を補佐するのが努めになるのは周知の事実。故に、万に一つの可能性として彼の下に就くことも考えられる。そう思っただけで心が躍った。が、その書簡には天地がひっくり返るような驚愕の人事が記されていた。あまりの驚きに魂が抜けそうになった。

「どうしました?」

心配そうに眉を寄せる陸遜の眼差しに気付き、慌てて意識を取り戻す。余計な心配を掛けてはいけない。しかしその思いに反して頭の中は、本当に何から口にして良いのか迷ってしまい、 は口を開けたまま陸遜と書簡を何度も交互に見てしまった。

「やっぱり…納得できませんか?」
「な、納得も何も…わ、わたくしが、こここ…」
「私だってこの人事に納得しているわけじゃないんです」

周瑜をも唸らせる陸家の当主は困り顔でそう言った。他の候補生が部屋を出入りするたびに 達を見る。その視線には悪意も善意も入り混じり の後頭部を突き刺していく。 は更に混乱に陥った。

「呂蒙殿、魯粛殿と相談を重ねた結果、候補生の中でも最も優秀な貴女に任せることにしたんです。色々と不安もあるかと思いますが、私達の、いえ私の顔を立てるつもりでお願いできませんか?」

褒められているはずなのに素直に嬉しいと思えなかった。寧ろ"一切の反論は受け付けない"と烙印を押された気分だった。 "お願い"と言う名の"強制"。そして縦社会に抗えない候補生。それが世の常である、と は大きな溜息を吐くことで頭の中を切り替えた。

「ぜ、全力を尽くします」

第一声が震えてしまったが、 は力強くそう答えた。そしてその回答に再び満面の笑みを湛えた陸遜は

「ありがとう。では、任せましたよ」

と言い残し、いつの間にか後ろに控えていた朱然に全てを任せて行ってしまうのだった。朱然と二人取り残された は、朝の爽やかな光が差し込む執務室とは裏腹の暗い、重い空気を身に纏いまた大きな溜息を一つ吐くのだった。











「へぇ、アンタが新顔か?」

朱然に案内された一室に足を踏み入れる。眩しい朝の光の中から鈴の音と共にそう問いかけられた。

「はい。 とお呼び下さい。宜しくお願い致します」
「で、今日の予定は?」

異動先の上官との初顔合わせの時間はこれで終わりのようだった。あれこれと詮索されるのにも困りものだが、これだけあっけないのも拍子抜けだった。それよりも自分が名乗ったのにも拘わらず、相手が名乗ってこないことに頭の中の線が燻った、ような気がした。

「午前は軍議がございます…」
「午後は?」

しかも、目の前では遠乗りの準備をしているようにしか見えない状況。これは『仕事放棄』を宣言しているとしか思えなかった。

「おい、午後はどうなってんだ?」
「…着替えてください」
「はぁ?」
「軍議にそのようなお召し物で出席するのはいけません!」

上官は指で衣服の端を摘むと、さっぱり分からないといった顔で の顔を覗き込んだ。身長差は頭一つとちょっと。

「馬っ鹿だなー、アンタ」

そんなことも分からないのか?説明する面倒臭さと、ちょっとした驚きの表情をしながら更に続けた。覗きこまれた顔は の目と鼻の先にあり、思わず一歩下がる。この時点で燻っていたはずの頭の線は勢いよく燃え始めていた。

「俺が居たところでどうなるわけでもねーし。あんなのは大体が念押しみたいなことばっかで、既に軍師さん達とお偉いさんで決定済みなんだよ。だったら、んなもんに顔出してるより別のことをした方がマシだろ?それに出たってつまらねーから寝るだけだ」
「し、しかしそれでは配下のものが困ります。一軍を預かる将なのですから出席なさってください!」

その言葉を聞き終わるまでも無く、上官の顔にはあからさまな嫌悪が滲み出た。しかしそれに負けじと ―陸遜の言葉を裏切るまいと― は一歩にじり出た。お陰で再び目と鼻の先で上官の不機嫌な顔を見る羽目になった。

「い、戦中に路頭に迷うなんて困ります!」
「…気になるならアンタが聞いて来りゃー良い。兎に角俺は忙しい・ん・だ・よ!」
「っ!?」

突然現れた指先で鼻の頭を弾かれた。そして後は頼んだぞ、と朱然の肩を叩きながら上官は部屋を走って出て行ってしまったのだった。完全に燃え尽きた頭の中の線。鼻頭を両手で押さえキッとなって朱然に向き直る。彼は肩を大きく揺らしながら必死で笑いを堪えていたが、その努力はあまり実っていなかった。

「しゅ朱然殿っ…!あの人は一体、何なんですか!?」
「何って…我々の上官でございますよ、ぶっ!」
「笑いすぎです!」
「まぁまぁ。仕方ないじゃないですか、面白かったんですから」
「面白くないですっ!」

『あの上官にして、この部下あり』と言うところだろうか。 は深く刻まれた眉間の皺を伸ばすように中指を置いてクリクリと円を描いた。

「でも良く頑張りましたね」

目尻に浮かんだ涙を拭いながら朱然は言う。

殿は領内を常に移動されていたからご存じないでしょうが、去年半年で十五名です」

指を一、五と開いて数を示す。 にはその数字が何なのか見当がつかなかった。

「我らの上官のことはどの程度?」

頭に血が上っていた は本人が傍に居ないと言う事もあり知っている噂を知っている通り話した。そんな の言葉一つ一つに満足そうに頷く朱然はにっこりと笑う。

「その通りですよ。「錦帆賊」と呼ばれる水賊あがりで、少し前までは劉表・黄祖に使えていたお人です。それ故、信用は少なく恐れるものが実に多い。この半年の間に十五名の文官・武官が着任後一月足らずで異動願いを出していきました」

そのお陰で彼は一度は甘寧の下から陸遜の下に異動となったのに、特に成果を上げる間もなく元の場所に戻された、と続けた。だからと言って不満はないようだった。

「わ、私だって出さないとは限りませんよ?」
「口を尖らせてもダメですよ」
「もともとです」
「それにあの人にしては珍しく、気に入ったようですし」
「は…?」
「例の十五名は皆揃って目を合わせない。第一声からあの人の言い成り。でもあなたは違った」

褒められているのだろうか?いずれにしても嬉しくなかった。それに に向けたあの不満そうな顔は、思い出せば出すほど『小煩い小生意気な女が来たな』としか言ってるようにしか見えなかった。

「慣れれば分かりますよ」
「慣れたくないです」

そのキッパリとした物言いに朱然は再び笑みを零した。

「では後を頼みましたよ」
「え!?」
「今日のところは私が軍議に赴きますので 殿は部屋の…と言うかアレの整理を」

朱然の指し示す方向には巨大な机と数々の書簡・竹簡が重なり合って出来たと思われる大きな山が聳え立っていた。一体どれだけの仕事を溜め込めばこの状態になるのだろう。ある種の衝撃が を襲っていた。頭の天辺から血の気の引いていく音が聞こえるようだった。しかし実際に聞こえたのは、窓辺の陽だまりに転寝をしていた一匹の猫の声。目を覚まして大きな欠伸を一つしたところだった。実に対照的になこの光景に朱然は、やっぱり腹を抱えて笑っていた。

「朱然殿っ!」
「あなたの顔色がクルクル変わって面白いものだから、つい」
「だから面白くもなんともありませんってば!!」

ムキになればなるほど笑い転げる朱然に目くじらを立てている場合ではなかった。 は軍議にまだ出掛ける様子を見せない朱然に文句を言いながら片付け始めた。使い物にならない筆、明らかに涎で汚れている書簡、饅頭の食べ零し、猫の爪とぎの痕。朝一番のあの幸せだった時間が遠い昔のように思えてきていた。

「そのように頭に血を上らせていたらせっかくの美人が台無しですよ」
「では台無しにならないようにあのお方の首に縄を付けて連れ戻して来て下さい!」
「それは困りました。いくらあなたのお願いでも無理ですね」

どこまでも暢気だ。叩きを振る音が自然と大きく、早くなっていく。

「それにああ見えて遊んでいるわけではないのですよ」

その言葉に振り返る。椅子に腰をかけて顎を摩る朱然と目が合った。

「ご存知の通り、賊は山越賊だけではないのです。たくさんの人が集まり、賑やかで、平和そうに見えるこの建業の都にだって賊はいる。押し入られ家族を失い、荒れた場所はいくらでもある。あの方はそういった場所に進んで出向かれる。それもあの風体を最大限に活用して。まぁ、もっとも…」
「どっちが『ついで』か判らない、と」
「察しの良い人は大好きですよ」

『見回りのついでに遠乗りをする』のか『遠乗りのついでに見回りをする』のか。

「いずれにしても軍議に出向かないのは良くないと思います」

パタパタと叩きをかけながら は呟いた。

「さすが伯言の見込んだ人物だ」

"伯言"は陸遜の字である。そして ははたと気が付いた。

「朱然殿、軍議のお時間では?」
「そうだった。あなたといるとこんなに面白いとは思わなくて、つい」

先ほどから口に出す"面白い"とか"つい"とか随分と失礼な表現ではないだろうか。 は朱然を恨めしそうに見上げた。 より丁度一つ分大きな男だ。今朝方であった陸遜は朱然よりももう少しだけ と視線が近かった。

「ではお名残惜しいがそろそろ行かないと陸遜殿の使いが来てしまう」
「一足遅かったですね義封。今日はこの僕が直々に迎えに来ましたよ」

と朱然の間に割って入ったその声の主。

「伯言…!」
「陸遜さま…!」

戸口から室内にゆっくりと足を進める。そしてガシッと朱然の首根っこを押さえてにっこりと微笑んだ。でもその微笑みは明らかに朝のものとは違っている、ように には見えた。持っていた叩きを置いて髪を整える。先ほど弾かれた鼻の先が何となく痒くて手の甲で掻く。そして改めて陸遜に挨拶をする。が、首根っこを掴まれたままの朱然がプッと噴出した。

「(なんなの、この笑い上戸!)」
「義封」
「これはすみません。しかし…本当に可愛いですね」

そういって懐に手をやって手ぬぐいをだす。けれど陸遜の方が一歩早かった。真っ白い布が の鼻先を軽く掠めていく。「ほら」と見せてくれた手ぬぐいは薄っすらと黒くなっていた。まさかと思って先ほど拭った手の甲を見ると ―どこで汚れたのかさっぱり思い出せないが― 黒く汚れていた。

「あ、ありがとうございます…」
「どういたしまして。では朱然を暫くお借りします。…お顔が赤いですね…大丈夫ですか?」
「も、もももちろん大丈夫です!」
「そうですか?では行って参ります、

相変わらず首根っこを掴まれたままの朱然は手をひらひらとさせながら陸遜に(引き)連れられて行った。一人部屋に残った は戸を閉めながら去り際の陸遜の笑顔を思い出した。

「"行って参ります、 "か…」

は候補生となるために幼い頃から男子の中に混ざって過ごしてきたが、なんと言っても年頃の娘だ。憧れの人の言葉にあらぬ妄想を繰り広げほくそ笑んで勝手に恥らう。しかし目の前に広がる現実を無視するほど夢見がちではなかった。そして、今見舞われている身の上の不幸を嘆いていじけるほど弱くも無かった。ふう、と息をついて改めて叩きを手にする。

「さて…初勤務はまだ始ったばっかり!(緒戦は負けちゃったけど…)汚名返上、がんばろう!」

にゃぁ、と応援するかのように猫が暢気そうな顔で鳴いたのだった。











― その頃 ―











「いてて、伯言いい加減離してくれませんか」
「とんだ見当違いでしたよ。まさか義封まで…」

掴まれていた首を離されると朱然はやれやれと撫でながら伸びをした。

「だから嫌だったんです。 をこちらに呼ぶのは」
「呂蒙殿に逆らえませんからね、伯言は」
「しかも私の手を離れて狼の群れみたいな所に…」
「呂蒙殿に逆らえないその身の上の不幸を恨むのですね」
「でも義封が傍にいるなら危険ですが助かります」
「いやー…それはどうでしょう?上官殿を含めて三竦み、ってことも」

ピタリと陸遜の歩みが止まった。

「一体それはどう解釈すれば良いのですか?」
「そのままですよ、伯言」

目的の場所は目前。戸前に控えている士卒が扉を開ける。しかし陸遜は踵を返して今歩いて来た廊下を足早に戻っていく。士卒がギョッと驚いて朱然を見ると愉快そうな笑みを浮かべているだけだった。そして笑いの混じった声で陸遜の背中に問いかける。

「伯言、軍議はどうするのですか?」
「すぐに戻ります」
「張承殿がたいそうご立腹ですぞー」
「直ぐに戻りますので適当に言っておいて下さい!」
「適当にって…。まぁ、あの慌てぶりは滅多に見られるものではないし好しとしましょう」

しかし文官たちの上座で頭の天辺から湯気が立ち上る張承を見た瞬間、その判断が愚かだったことに気がつく。苦笑交じりに肩を竦めると、所在無さげに立ち往生している士卒に何か語りかけて席に着いた。語りかえられた士卒はキョトンと目を丸くして朱然の言葉を頭の中で繰り返した。

『"陸遜の恋の初陣、見守ってやってください"というのは如何でしょうかね?』

















written by ミノル